Our Craftsmanship
SAROMEのものづくり

SAROMEのあゆみ

サロメ社の創立は1940年に遡る。会社設立当時、創設者瀬川國治郎はライターの製造には携わっておらず、専ら玩具製品用の板金加工を請け負っていたプレス職人の中の一人に過ぎなかった。

(株)サロメ創業者 瀬川國治郎

今の時代でこそ職人不在で玩具のブリキのプレス技術は重宝されるが、当時はプレス技術としては特筆されるものではなく、メーカーに対しての玩具問屋の実支配力が強かったこともあり、玩具用品のプレス職人はそれほど重宝されてはいなかった。様々な玩具を製作するうちに、中には今でいうテーブルライターのように、車や飛行機の形ををかたどったブリキの玩具にライターを差し込んだような製品があり、当時瀬川國冶郎は自分で作成したブリキのプレス物に外部から仕入れたライターを接合して玩具問屋に出荷することがあった。当時輸入されていたいくつかの舶来品のライターに次第に魅惑され始めた國治郎は、ついに自らライターの製造に踏み切る事になる。

紆余曲折の末、ようやくライターの製品化に漕ぎつけた各種のオイルライターは、既にこの頃からSAROMEライターと名付けられた。まだ1950年と戦後まもなくの頃である。SAROMEの由来は、当時國治郎が感銘を受けた本のなかで「サロメ」という人物が登場し、それが人を魅了してやまない火の神様だったことから、人を魅了してやまないライターを作ろう、ということでブランド名がSAROMEになったと伝えられている。当時のライターは全てオイルライターであり、ガスライターはまだ登場していない。この頃に制作されたこれらのサロメオイルライターが、現在"VINTAGE SAROME"として一部の愛好家の収集対象になっているものである。1955年、サロメ社は日本で初めてガスライターの製造に着手する。世界的に見ればRONSON社の次に開発に着手したことになり、後述する以降数十年にわたっての各種のガスライター開発競争について、サロメ社は常に先行して主導的な立場をとっていく地盤を築きあげる。

初期のガスライター

当時のサロメのガスライターとして特筆すべき技術は、変形ものの深絞り技術を用いた金属ケースの制作であった。絞りとは材料をプレスで抜いてからなましなどを経て、何工程もかけて金属板を変形させていく技術であるが、R形状に金属を絞り上げるところにサロメライターの特異性があった。ガスタンクの深絞りやノズル部品のくぐしなど、金属ケース以外にも板金加工技術はふんだんにライターに用いられた。他にも金属製ライターの制作が基で確立されていった板金加工技術は意外に多く、ライター以外での各製品の基幹となる技術の素地が、多くの東京墨田・葛飾界隈の職人達に培われ、結果、戦後の日本の高度経済成長を縁の下で支えることになっていくのである。

また、サロメライターは表面装飾においても高評価を受けていく。既にオイルライター制作時代のときから、革・電鋳・貝殻貼りなどの装飾法やクルーザーやブルーバードといった船や車の形をかたどったものまであったが、ガスライターとしての機構品質と装飾技術があいまって、真っ向からドイツ製ライターに対抗する存在になる。当時のドイツ製は、質実剛健な造りで内部機構などは高度な切削技術で造り込まれたが、表面に対する装飾加工技術のバリエーションに乏しかった。それに比べて、フランス製やスイス製のライターはドイツ製よりは表面加工技術に優れ、今でも高度な内部機構の切削技術を活かしつつ、表面装飾もきらびやかなライターが製造されている。

初期のガスライター

現在、高級品ライター市場でフランス製、スイス製、日本製が残っているのには当時からのこのような背景があるものと思われる。また、先行開発に成功したガスライターの販売に際しては、日本国内においてもTVコマーシャルや雑誌媒体などで大々的な宣伝がかけられた。1960年頃にはオイルライター製造からより精密なガスライター製造へと事業内容を大幅にシフトし、SAROMEは国産ライターブランドとして内外国に確立された存在になる。ガスライターの次の技術的なブレークスルーは、1966年に開発された電子ライターである。電子ライターとは、レバーなどを押すとノズルから噴出されたガスに火花が飛び、着火するもので、それまでの古典的なやすりの回転による着火方式を一新させた。サロメ社はここでも主導的な立場で開発に携わったが、それから3年後の1969年にテーブルライター"TP1"が発売される。玩具製造時代の経験を活かしつつ、新技術の電子着火方式を取り入れた同製品は、日本はもとより世界的な大ヒット製品となる。

世界初のキャタライザー付きターボライター。
触媒反応で二次着火を促す事で風に消えないライター。
現在のターボライターの原型。

1986年、サロメ社は世界で初めて風に消えない触媒式のジェットフレーム・ターボライターの開発に成功する。ほぼ同時期に他社からジェットフレーム・ターボライターの製品が先に発表され、世界初のターボライターの名称は逃す事になるが、サロメ社が開発していたターボライターは、一度火が消えても白金線に篭もる熱を基に、再び着火するという白金の触媒反応を利用した、二次着火機能を備える風に消えないターボライターであった。この機能的な利点を有する"SAROME TURBO"は世界各国に爆発的にヒットし、世界のライターの地図を塗り替え、ターボライターのスタンダードとなっていった。この頃から、他業界よりも一足先にライター製造業界において、中国の台頭が興り始める。触媒式ターボライターはサロメ社の開発後に、大量の模倣品が中国で作成され、欧州市場に流れてゆく。産業が生まれて間もない中国メーカーの製造する品質は悪く、模倣品が大量に流れた欧州市場ではターボライターの価値が劇的に下がっていき、ついにはターボライターそのものが、日本製を含めて全面的に欧州市場に受け入れられなくなる事態となってしまう。数年に渡っての中国ライターメーカーによる価格破壊と市場破壊が進んだ結果、多くの日本のライターメーカーは廃業に追い込まれていく。50年以上にわたって、ライターづくりに携わってきた多くの下町の職人たちは、心血を注いで磨き上げていった職人技術をその手に残しながらも、次世代に継承する事無く、多くは消えゆこうとしている。

中国福州工場

サロメ社も1991年に中国福建省に進出し、独資によるライター工場を設立して時代の流れに対応していく。通常、現地への事業進出方法は、多数の商社が日本製に代わって中国製を安く仕入れる目的で、現地の中国ライターメーカーとの提携という手法が今現在でも主に用いられている。しかしサロメ社は、あくまでも現地での中国人のライター職人育成にこだわり、多くのサロメのライター職人が日本から中国工場に乗り込み、直接、熱意のある若い中国人を指導し、一からライターをつくり上げていくという、業界では他に例を見ない独自の工場運営を行なっていった。また、サロメ社は日本国内でも開発力を強化し、最新のNC切削マシンやCAD/CAMシステムを積極的に導入していき、中国に工場進出してもなお、職人の育成にはなお数十年が必要との判断から、日本開発主導による色合いをより一層強めていった。

NC工作機

現在、日本で販売されているライターは、中国製のものが主流となってきたといえるが、プレス・切削技術でこだわりを持ちつづけた日本の技術力は現在に至っても非常に高く、世界中を見渡してもオンリーワンのものが多く、ライターの完成度をみれば日本職人によって作り込まれた製品は、いまだ他国製を圧倒するものとサロメ社は判断している。また、最近はライターだけでなく、他製品においても墨田、葛飾界隈の職人の技術力を活かした日本製の良さが今一度見直されてきた。市場を顧みれば、隆盛を誇った一時のDCブランドブームがほぼ終焉を迎え、再び原点に立ち返った良いものづくりが受け入れられる背景が徐々に育ってきており、SAROMEもJAPANライターブランドとして再び認知されるようになっていった。サロメ社は創設者瀬川國治郎がかたくなにこだわった、良いものづくりをするという不動の信念を基に、時代に流される事無く世界に通用する製品作りに今現在も励んでいる。

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