Our Craftsmanship
SAROMEのものづくり

創業当時の様子

(株)サロメ創業者 瀬川國治郎

サロメ創業者「瀬川國治郎」
昭和15年にプレス板金加工業を開始。当時はブリキの加工が主でライターの製造は行なっていなかった。ブリキの仕事の中で、テーブルライターの下に入れるブリキの作成依頼があり、上に載せるライターを見たところあまり良い品ではなく、以来自分でライターを含めて全部プレスで作るようになったのがライター製造の始まり。以来晩年まで製造に携わり、ライター職人として生涯現役を全うした。

昭和20年代。治具のヤスリがけと定規の確認をする國治郎。当時はワイヤーカットや放電機械などの工作機械が町工場にあるはずも無く、ライターのプレスに用いる冶具は完全な手仕事であった。平行を出すためのやすりがけなどは職人の技能に頼られた。

創業当時の墨田区八広のプレス工場。ブリキ加工をメインに3人での創業であった。

真鍮の板材をカットするところからライター作りが始まるのは当時も今も変わらない。抜き、刻み、折り曲げ、半田付けなどを様々な工程を経てライターの部品へ完成してゆく。

昭和30年前後、國治郎がパリを訪れたときの様子。当時はジェット機がなく、プロペラ機で長時間かけての渡欧であった。日本製がまだ認められる時期ではなく、品質が良くても日本製というだけで受け入れられない土壌が当時にはあった。

昭和29~31発表されたサロメ"エレガンス"
当時流行していた白黒テレビからヒントを得たというユニークなエピソードを持つライター。貝貼りや七宝など、現代においても採用される加工が既にこの頃から実現されていたのは驚きである。いわゆるモナカの半田付けの構造で、真鍮板を貼りあわせて半田付けし、半田の跡を手仕事で消しながらメッキ加工を行なっている。今で言う絞り加工は採用されていない。仕上げに手間がかかり、半田の処理が悪いと燃料漏れなどを起こすので、非常に職人泣かせの構造である。オイルライター。

昭和34~35年に発表された"ブルーバード"と"クルーザー"。欧米の小売店に数多く展示された。VINTAGE-SAROMEとして今でもアンティーク市場で取引のある製品群。創業時に培ったブリキの加工技術を活かしてはどうだろうかと、発案し製品化された結果、北米で大ヒット。社内には数ヶしか現存していないので、市場で流通するアンティーク品は、真に貴重品といえる。

日本で始めてのガスライターの開発に着手するが、残念ながら製品化は他社に先を越されてしまう。炎の長さが自在に調整できるという事は、当時としては画期的な技術革新であった。また、ガスタンクの密閉度が品質に直結する事であり、当時から品質への挑戦を追い求めていたサロメは、以来ガスライターの開発を本格化していく。

昭和35年、船橋市三山工場新設の様子。現サロメ本社所在地でもあるこの場所で職人の育成に励み、現在のガスライターの素地を作り上げていく。

昭和45年前後の欧州展示会の様子。写真は國治郎の長男隆昭(現サロメ社長)。ガスライターをメインに欧州で代理店製を敷いていった。日本製が認知され始めており、SAROMEとして本格的に世界進出を果たしていく。以降、ICライター、バッテリーライター、ジェットフレームターボライターなど日本の技術ならではのライターが続々と開発されていく。

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